私の叔父、絵画と楽器演奏の恩人
まず、最初にお断りさせていただきます。
又、ひとつだけリンクも貼らせていただきました。
東京バラライカアンサンブルというバンドというか演奏集団があります。
1982年結成と言いますので、今年で33年目という歴史があるバンドです。
HPに短い演奏動画が貼り付けてあったので、バラライカバンドの音を聴いていただくため、リンクを貼りましたので開いてみてください。
※この中の動画のコンサートには叔父は参加していないようです
次の写真もHPから流用させていただいたもので、撮影は2004年年末です。
叔父のドムラは「マーラヤ」といって、ソプラノのワンサイズ上のものだそうです。
面白いことに、この4つの音は、オクターブは違いますがギターの6弦、5弦、4弦、3弦の順の並びなのです。
しかし並び方が逆なので、コードを弾く場合、ギータのコードフォームは全く使えません。
例えるならば、左利きの松崎しげるさんが右利き用のギターを弾くイメージです。
私がなぜ知っているかと言うと、叔父から聞いたのではなく、昔Madknight & his staffsの相方「りんご」と若い頃に作って多重録音した「今はもう昔」にマンドリンを入れるときに苦労しながら覚えたという経験があるからです。
参考までに、「今はもう昔」のYouTube楽曲動画をもう一度貼り付けます。
私は65歳で髪は薄くなりましたが、私の母の3人いる弟の一番下であるその叔父は、写真の通り、髪は黒々でふさふさの、とても日本男性の平均寿命を過ぎているとは思えない若々しい老人?なのです。
叔父は、学生のころは美術専攻で「絵描き」でした。
私が5~7歳ころ、当時隣接していた母方の実家に叔父は住んでいて、時々遊んでもらいました。
実家には「ヨーマ」(当時子供の私が意味も解らず言っていた言葉で、洋間のことです)があり、そこが叔父のプライベートルームでした。
部屋に入ると、煙草のにおいに混じって油絵具、溶き油、キャンバスの布などのにおいが蔓延していました。
叔父は、「こいつは燃える水なんだ、子供は危険だからさわるなよ」と言いながら、ウイスキーを木製のテーブルの上に少しこぼしてマッチで火をつけました。
火はボアッと勢いよく燃え上がったので、子供の私は「確かに危ない水だ!」と洗脳されました。
この部屋には他にも一般家庭には絶対ない物や、子供には珍しい物がたくさんあって、そこにいるだけで楽しかった記憶があります。
そして、一番楽しかったのはオルガンでした。
今ではめったに見られない足踏み式の超・アナログオルガンです。
右ひざでレバーを押すと、音量が大きくなるのも懐かしい機能です。
ピアノと違って大きな音がしないから、ご近所迷惑にならないので、叔父の「ヨーマ」に入れてくれると必ず弾かせてもらいました。
私は「猫ふんじゃった」をこの時に弾けるようになったのです。
叔父はオルガンを教えてはくれませんでしたが、子供の私が見てギリギリ「わぁ、すごいなぁ!」と思えるような演奏をして見せました。
なぜ「ギリギリ」なのかというと、当時美術専攻の絵描き学生だった叔父は、音楽好きで演奏好きではありましたが、音楽を習ったことがなく、独学(というより、自分流にテキトーに)弾いていたからです。
だから、本当の曲とすこし旋律が違ったり、リズムも変に聴こえたことがありました。
記憶が曖昧な曲は、勝手に作曲したり編曲したりして弾いていました。
そんな「独学」だから子供の私にオルガンを教えられるわけがありません。
そうか!叔父は誰からも教えられないのにあそこまでオルガンが弾けるのか!ボクもできるかな?
と、当時の私は大きな勘違いをしました。
(そして、私は今も勘違いしたままです)
叔父は、それらの楽器も「子供が聴いて、ギリギリ上手に思える」レベルで弾きこなしていたのを覚えています。
特にウクレレは、子供の私にとってサイズ的にバランスが良くて「欲しいなぁ・・」と思っていました。
8歳の時に、父方の年の離れた従兄からフェイマス製のソプラノウクレレをプレゼントされたのは、その後少し経ってからでした。
それは、現在の年齢になっても、今までで最もうれしいプレゼントのひとつでした。
※当ブログの「人生の恩人」の書庫の、2013年12月30日付の投稿「楽器デビューの恩人」をご参照ください。
「楽器デビューの恩人」へのリンク⇒
この叔父から大きく影響を受けたのは、絵画や美術の技法や、オルガンの弾き方とか楽譜の読み方ではなく、自由奔放な発想と、なんでも一人で覚えて実践する行動力でした。
絵が上手で、油絵具だけでなく、クレヨンでも、鉛筆一本でも素晴らしい絵をかくことができ、画用紙以外の例えば割りばしの袋やたばこの紙箱の裏、うちわ、板の切れ端などキャンバスを選びませんでした。
絵だけでなく、叔父は紙を使った工作も得意でした。
そして、ステンシル版画で作られた年賀状は、今でも毎年送られて来ています。
この美術センスをほんの少しばかり受け継いだ私の作品(作品と言えるレベルではありませんが)は、当ブログの箸休めのつもりで作った書庫の「イラストとポンチ絵」にいくつか掲載しましたので、見たくもないでしょうが見てください。
こんなエピソードを思い出しました。
私が5歳のころ、当時の母方の実家は古い藁ぶき屋根の平屋で、トイレ(便所と言う方が正しい)は台所と居間から一番遠い場所の暗くて寒い廊下の突き当たりにありました。
夕食が済んで、外も暗くなった時間にオシッコがしたくなった5歳の私が、「便所は暗くて臭くて怖いなぁ」と思いながら用を足しに行くと、その便所の入口の戸板に、白い紙に細い筆で黒い墨で、丸と数本の線だけで描かれた「顔のような絵」が貼り付けられてありました。
それは、あからさまな「怖い絵」や「幽霊、お化けの絵」ではなく、明るい時間に見れば何でもないただの「線で描いた顔のような絵」なのです。
しかし、便所のチラチラとつきが悪い裸電球の薄暗い明かりに照らされた状態でみると、線で書かれた目と口と思われる部分が動いたり、少し開いて舌が出たりしたような錯覚を起こしたのです。
5歳の私は「ギャー!」といって泣きわめきながら居間に戻って、母親に飛びついたのを覚えています。
そのあと、叔父は私の母からさんざん怒られていました。
でも、その絵を明るい居間の電灯の下で大人のみんながあらためて見て、母は「何よ、ちっとも怖くないじゃないの」と言うし、同席していた別の叔父や叔母などは「○○ちゃんは絵が上手だね!こんな簡単な線画だけで子供を怖がらせられるんだからね~」と感心していたのも覚えています。
芸術的センス抜群の叔父は、ここまで計算して幼かった私を罠にはめたのです。
そんな叔父は大学院?卒業後、公立小学校の図工の教師になり、最終的には校長になりましたが、早期退職して、かねてからやりたかった音楽の道へ入っていったそうです。
東京バラライカアンサンブルのメンバーとして練習開始した当時、叔父の「あまりに独学過ぎる知識と演奏力」にあきれた先輩団員から、音楽をきちんと勉強し直しさせられて現在に至っていると聞きました。
何と言っても、日本人男性の平均寿命以上の年齢で、今なおコンサートマスターをやっているのですから、叔父はすごい!
そんな叔父は、音楽と美術にはほとんど縁のない両親から生まれた私に、その両方に興味を持つきっかけをくれた大恩人なのです。
叔父さん、ありがとう!